まずは烏賊から

世界屠畜紀行

世界屠畜紀行


僕は烏賊を買わない。スーパーでの話。烏賊を買ったことがない。
トマトソースで絡めてパスタとかシーフードカレーの具とか、調理については幾らでも使い道は思いつくのだが、
スーパーに並んでる烏賊を家に持ち帰って捌くのが億劫なのだ。
でも肉は喜んで買う。豚肉、鶏肉、持ち帰ってフライパンに放り入れるだけだ。
こんなに簡単で、ウマい。


現代のスーパーでは、肉は、本来の生きていた頃の姿とは遠い、丁重にスライスされ、
パックされた姿で並んでいる。これがいいかどうか悪いかは別にして、この本の作者は、
パックされた肉が、生きていた頃から捌かれて、肉になる生と死の狭間に強い興味を持っている。
そして、現状として日本で存在する屠畜業者に対する差別へも。


世界各地で屠畜の現場-ある国では祭礼的意味を持ち、またある国では屠畜者の社会的地位は保証されている-を点々とした作者が綴るエッセイ。情熱大陸で取り上げられていて、左利きの、『お箸は右手』という言葉から左右の判別が苦手なところに非常に親近感を覚えて(僕もそんな感じ。『右折』といわれて左に曲がる男です。)番組を見て、この本に興味を持った。買った。
かの番組では、作者内澤が食べるシーンが何回も出てくるのが象徴的だった。


普段何気なく食べてる豚肉や鶏肉や牛肉は、かつては牧場や厩舎をのっしのっし或はちょこちょこと歩いていて、
生ある形を持っていたのに、スーパーに着くときには綺麗な'肉'になっている。
毛を抜いたり、血を抜いて枝肉にしたり、臓器を解体したりなどの過程をなるべく想起させない、遠ざけるようなものになっている。


屠畜の作業は実際に目にすると、怖いとか、血の気を失うような光景があるのかもしれないけれど、
内澤は「実際に食べてるじゃん、おいしいじゃん」というあっけらかんな姿勢で取材している。
彼女自身の手によるイラストを眺めながら、さくさくとこの本は読み進められて、
自分が如何に生まれた地域の価値観・文化で縛られていて、無意識下で済んでしまう迄遠ざけられた事実の存在を知ると思う。
無意識に自分を縛っているものを自覚し、解放されて初めて、俯瞰的な姿勢になれるのではないかとも
思う訳です。


個人的には、網野善彦歴史観に基づくと士農工商に分類されずに非人とされた人々に屠畜者が含まれ、
彼らが、畏れられた人々であったのに対して、どうして現代の差別につながったか(部落差別も同様なんですが)てのが
気になる。畏怖すべき存在がいつのまにか社会的底辺もしくは被差別者として存在せざるを得なくなった現状に対する答えは
彼らにではなく、差別をしている日本人僕らの中にあるのでしょう。多分、いじめ的発想か。あいつは自分達と違うから
同じには扱えないよ、のような。


なんなんでしょうね。


まぁ、今度は、烏賊を買ってみよう。カレーはこの前作ったから、トマトソースと絡めてみよう。
蟹は左右にしか進めないが、烏賊は上下にしか進めないんだぞ!