ブラセニッツへ

先日書いた通り、ボスニアのブラセニッツで日本文化紹介のセレモニーやら、
現地見学等で21,22,とあるので週末被せてついでにサラエヴォとかに行ってきたいと思います。
以下時系列的につらつらと書き綴って行きたいと思います。


まずは、21日の朝にバス停に集合で日本人の知り合いと寮のレセプションで待ち合わせだったのだが、
10分待ち合わせ時間を間違って(都合のいい記憶してしまって・・)、
キられて(キレられたわけではない、と願う)
一人で慌ててタクってバスターミナルへ。
だいたいタクっても400円くらいで済むから傷は浅いとか思いがちなんだけど
繰り返すと大分散財してしまうので、気を付けなければ・・。
400円で3杯はバーでビール飲めるし・・。


待って下さった方々申し訳有りませんでした。タクシー使ったおかげで、
無礼ながらも先に着いてしまってばつが悪かったです。


バスは非常に素敵な、窓が白く濁って外が何も見えない、
幾つかシートが壊れているセルビア在住二年半の日本人の知人も
これはかなりのランクだと唸っていた。
スラヴィッツァというブラセニッツ生まれの日本留学経験のある子も合流して
(その子の名前の意味は、スラヴァという祭りの子ということで、
日本名で祭子サイコと呼ばれていた。)


後で疑問が解けるのだが、なぜだか、同行したセルビアの友達はボスニア入国に際して
パスポートがいらないらしい。


さて無事にブラセニッツに着いたら、けっこう雪国。
真っ白。なんとなく日本の鄙びたスキーリゾート温泉街を思わせる(でも温泉はなかった)小さな街。


三線抱えて、セレモニーの会場に案内されたら、そこはネットカフェと卓球場を混ぜたような
市民の憩いの場所。明らかにゲームにしか使われていないようなパソコンと、場所取りを巡って
涙ぐましい思いをした少年もいるであろう、1つだけの卓球台がある、20畳くらいのだった。
なんだかよくわからずに、小一時間以上待たされて、ホストの家に移動。
ほんとによくわからずに待っていたのだが、いちおう会場下見という意味だったらしい。
明日はいろいろ見学したり何回か日本文化を紹介するらしいが、
まだほとんど決まっていないらしくて予定は五里霧中。
招待したんだから予定くらいフィックスしておけよ、と言いたいところだが、ここはバルカン、
ポラーコ、ポラーコ。流れに任せることにしました。

ホストの家で、スラヴァの残りの食事を頂いて、これが薫製コイやら煮込み豆のオーブン焼きやら、
非常に美味しかった。セルビアのお菓子は砂糖の食感が残る程甘い、つまり溶解度以上に砂糖が混ぜ込められている
かと思わせる程甘くて普段は敬遠しているのだが、手作りのお菓子もかなり美味しかった。
経験的に言うと、家庭料理がセルビアで一番美味しいと思います。


ほんで、会場の準備のため、先ほどの小宴会場に戻ったわけだが、外は雪がしんしんと
降ってて、外歩いただけで体が冷えて、寒いからコーヒー飲みに行かへん?という
話になって準備の前に5分ほど歩いてレストランへ。寒いので暖かい赤ワインを頂きました。
話は聞いていたが、滞在中の費用は街が払ってくれる様で、ブラセニッツ滞在中は
ボスニア通貨を全く持たなくて大丈夫やった。
でも白い地面が冷たくて冷たくていつも足が痛かった。でも移動は常に徒歩。徒歩で
廻れる街なのです。


いつのまにか午後8時廻ってしまって、明日朝早いしオニギリを作って持っていくのにどのタイミングで作るよ、
という話になって、ホストの家で炊飯器セットしてスイッチ押す係に任命されて
寒かったけれど、頑張ってお米炊きにホストの家まで往復してきました。


小宴会場に戻るとやいやい日本の写真を貼っていたので、それに混じって作業していたら、
明日のセレモニーの日本文化をパソコンでプレゼンする係のサイコが「ソフトが動かねえ」とか
言い出して、いきなりプレゼンを作り出した。というか自分でプレゼン作って持って来ないで
かなり日本人が持ってくるプレゼンCDに期待していたらしい。てことはそれ以外ほとんど
なにも考えてなかったのね・・・。サイコよ・・。だから行きのバスの中で
喋るネタ増やす為に元寇の年号を知りたがっていたのね。


これからサイコ・・という言葉が何回か出てくるかもしれませんが、凄く彼女を紛糾しているわけでは
ないです。ただ彼女の凄くセルビア的なところに何度か唖然とさせられたのです。でも彼女は英語も堪能で
一年という短い日本滞在の割にかなり日本語会話能力に長けた語学力の光る才女だと思います。
「あのね〜」という切り出し方がかなりポイント。


さて話戻して。ようやく会場も整って、歌の練習をしてみて、男子と女子に分かれて解散。男子はホストの家に
帰ってダンゴ的な握り飯をこしらえることに。6合×3回で小さめの握り飯を127個。家内制手工業とは
こういうものだったのか?と偲ばせるような製造工程を考えて、僕は常に炊きと握りに徹していました。


ツナ醤油ネギ胡麻味オニギリ127個拵えて、
3時前ほどにようやく眠りにつくことが出来たのでした。
疲れた。でも明日は6時半起床。ぐふう。


追記
ちなみにボスニア紛争において、この街のすぐ近くに『民族浄化』を目的とした
強制収容所があったらしい。NATOがいながら人々が連行され帰ってくることが無かった
NATO軍の大失態(実際NATO軍はその時充分な武器を持たない部隊が駐在しててなにも出来なかったとか
強制連行してた軍隊と酒飲んでたとか云々)があった有名な地域がここらしい。
それは、ほんの10年前の話。一見普通の街に見えるこの街もたった10年前、
僕が中学生で呑気にうんうん春を思っていた時期に、平和な日本で育った僕からは想像もできないような悲劇が
襲ったのであって、やっと人々に笑顔が戻って平穏な生活に戻ったのがつい最近であることに言葉を失う。
ODAによる日本からの援助は少なからずあったけれど、この様な文化紹介という形でも日本を知って
もらえる機会に恵まれてよかったと思う。だから、僕は一生懸命三線を弾いて歌を歌います。