縛られることと縛ること

ちなみにいま、ラマダンの期間です。
この期間はムスリム帰属意識が高まってテロが起りやすくなる時期だとか。
空腹で爆弾を抱えてバスに突っ込む若き青年の心境は、
推すことはできても自分には完全に理解はできないと思う。

さて、なんでいきなりラマダンの話をしだしたかというと、
モンテネグロにシリアの友達も一緒に行きました。
彼らは日曜日のお昼について月曜日の夕方に帰るという
超強行日程でやってきたので、先日のブログにはあまり登場しなかったけれど、
一緒にkotorに行きました。
ラマダン中で、日中は水も飲めずに街をうろうろしていたわけで、
しんどいだろうなあ、と思ったけれど、彼らを見ていて思うのは、
「縛られているなあ」ということ。


コーランは常に新しい。一日に5度メッカの方向へ祈る。ある期間に断食をする。
神は唯一の存在。現世よりも来世。厳格な貞操心。などなど数え上げれば切りがない。
敬虔さによってある程度の線引きはできるみたいだけれど、
踏み越えられない線は沢山ある。自己の自由意志でもどうにもならないことが沢山ある。


イスラム教が、というかモハメドがよく考えているな、と思われる点が、
自分を最後の予言者だとしたことだと思う。
過去にもキリストを含め数々の予言者がいたけれど、
彼らは全て神が遣わした予言者で、自分こそが最後の予言者であって、
今後予言者は現れないだろうとしたこと。
つまり過去の宗教を肯定した上で、
それにより未来の宗教を否定し自分を絶対化したこと。
後に予言者は現れ得ないし、戒律を変えることは不可能となる。
それは現在のイスラム教の普遍性・不変性にも確実に繋がっていると思う。


で、なんで縛られている、としたかというと、
彼らは自分で考え自分で判断することができない。
例えば、「ラマダン賛成だけど水くらいなら飲んでもいんじゃね?」
とかいう発想はできない。
無意識に縛られているからそうなのだと思うし、
それはたぶん日本人の自分にも構造的に変わらない部分があって、
無意識に何かの習慣的もしくは戒律的なものに縛られているのかもしれない。
旧い日本のシステムに則って。


でで、受動的な縛られるということを考えたときに態動的な『縛る』ということが
考えられると思うけれど、これは、自分で考えて判断して、
してはいけないことを決めていくことだと思う。
失うものがあって、それを失うのが怖いとき人はそれを失わないように
自分を縛るということが肯定できるのかな、と思う。
例えば、愛する人がいて、汚れた手でその人に会いたくないと思ったときに、
人は行動を慎むことができるのかと思う。
逆に言えば、自分が日本的な汚穢の意識(ペルーの子達を見ているとその線は確実に違う)
に縛られているから『汚れた』という表現を使うのだと思うけれど、
自分はその表現を肯定したいと思う。


そして最後の食事だからと神に許しを乞うて日の沈まぬうちに食事を摂って、
満腹で爆弾を抱えてバスに突っ込む人間の心境も僕には理解できないと思う。



断食と言えば、ルーマニア正教では、ある期間だけベジタリアンになる、
という戒律があって、これむっちゃヘルシー。