リングの外と中

亀田選手の世界戦を見た。こんな情報僻地でよくもまあ、ボクシングの試合の映像が廻ってくるものだ、となんだか不思議な気分だが、なんのことはない、知り合いに元プロボクサーの日本人がいて更に同じ学生寮(そう、彼はいま学生)にいるのだ。


その人は、自分よりも一回り年上で一度就職もしていて、えてして自分が初めて知人として頻繁に接した'大人'かもしれない。物腰も、他者に対する彼の立ち位置も、実際の行動も。いろんなことやってると、公的な場で大人と接することは多いが私的によく出会う、という関係は、就職経験のない自分にはあまりなかった。働いている(いた)から大人とかそういうことではないような気がするが、親からの擁護を受け、独り立ちしていく過程で、廻りには'大人的'な人が増えていくと思う。はっと我に返って、廻りを見渡すと『この人は大人だなあ』と思う人を発見することを最近とみに感じる。ああ、もう24歳か・・・。


そんな彼は、諸事情で住処を替えるべくマケドニアモンテネグロに部屋を探しているようで、もし、遠くに行ってしまったら寂しい限りだ。ちなみに彼(ら)とはセルビア語での日本語の教科書編纂プロジェクトのようなものもやっている。自分の担当はページレイアウトで、セルビア語特有のアルファベットの文字表記の互換性に苦しみながら、僭越ながらお手伝いしている。


閑話休題


ボクシングの話でした。長い前置きの後にやっっと試合(本題)が始まってから見入っていると、変な音が『ビシっ、ビシビシっ』と聞こえてくる。よく見ていると亀田選手のパンチが当たる際に、その音が聞こえてくる。逆もまた然り、ではなく対戦者のランダエタ選手のパンチの場合にはなにも聞こえてこない。この映像が生中継のものであることからして、パンチが当たる度に、なにかのボタンを押してビシ音を吹き込んでいる輩がいるようだ。名付けて、音響係(そのまま?)。他の試合の映像で練習したんだろうなあ・・。どこの民放だか忘れたけれど、会場のセットといい、音といい、前置きといいやたら手が入っている。


そういえば、亀田選手の一試合を通した映像は初めて見る。部分的な試合映像でしか、見た事なかったからちょっと気になって借りてみたわけだが。強いと思うよ。亀田選手。巷では批判や擁護が渦巻いているみたいだけれど、そいういうことは置いておいて、じーっと、ゴングが鳴る前の映像やリングの外から聞こえてくる音や声、''以外''を、集中して、リングの中を見入っていてそう思う。よく守ってしっかりとパンチを打っている。軽快に上体を揺らせながらパンチを打つランダエタ選手とは対照的なスタイルだ。


5Rくらいまで見てこの文章書き始めたらいつのまにか11R。リングの中の2人は依然として必死に試合をしていた。なんかここで見るにはあまりにも場違いで呑気なCMや実況や演出に興醒めして書き始めたわけだが。この試合の判定は難しい。サッカーで言ったら1-1の様相。でもボクシングはルール上勝者を決めなければいけない。そんな感じ。『じゃあ、微妙に有効打の多かった亀田クンの勝ち』ってところ?プロスポーツって難しい。


スポーツを観ることと、勝利の意味と、必ずしも勝利(結果)と実力は相照らし合わないことと、そして見せるスポンサーなどなど。ボクシングだけの話ではないよね。


今回の結果に不満があるという人は、消音で、試合の12Rだけを、リングの中だけを見てみるといい。なんだか僕はボクシングというスポーツの過酷さを思った。


亀田選手の試合後の号泣は嬉しさとかからではなく、自分の言動や家族の信念や後に続く弟達や、そして自分の夢、に対する'責任'という重みから解放された1人の人間の姿だったと思うのです。


先日のワールドカップで、スペインのフェルナンド・トーレスがフランス戦に際して「次がジダン引退試合」とやんちゃな発言をしたが、実際にはフランス(ジダン)は素晴らしいプレーをしてスペイン・ブラジルを破った。コートの外と中での話。全く違う話のようで、僕は構造的な類似点を感じずにはいられない。


この亀田選手の試合は、リングの外と中の隔絶を最大限まで高められてしまったものかもしれない。観る側は外を楽しむのもいいけれど、より本気が観れる、中を楽しまないと!