コソヴォ3031032006

変わらない空と変わる営み

コソヴォへ行ってきた。特に目的があったわけではない。街を'見て'みたかったから行ったというのが一番適当な言い様かもしれない。バルカン現代史の本を齧り読んで、見聞きしただけの自分にとって、ここがこうあるべきで、これが間違っていたなどと主張する気は更々なく、メディアの情報や写真でイメージに走るのではなく、実際に現地に行って、その場所を感じてみたいという気持ちが強くあった。前日にコソボのミトロヴィッツァ(今回来訪した都市)でアルバニア人セルビア人を刺すという事件が起きて、少し躊躇したが、なんとなく誰かに'さあ、どうします?'と聞かれているように感じたので、'ああ、引かないよ'と返事して、行ってきた。


この機会を与えてくれた知人に深く感謝したい。
知人は毎週ミトロヴィッツァへ足を運び、2名ばかりのセルビア人の学生に日本語を教えている。慣れてきたので、他の日本人も連れて行こうということになり、以前からお願いしていて、おそらく若くて男という理由で、僕が誘われたのだと思う。ミトロヴィッツァの大学には日本語コースがあるが、近年の混乱を極めた情勢の中で、日本語を教える教師はいなくなり、昨年度は全く授業がなかったらしい。多くの学生が日本語を学ぶことを諦めコースを後にしていったが、2名の学生がまだコースに在籍している。彼いはく「だって可哀想やん」という動機で彼女達に日本語を教えるに至ったらしいが、日本から遠く離れた、所謂、僻地で異国の人々を掬い上げようとしている日本人の姿を目の当たりにした僕は、ただ刮目するしかなかった。


前置きが長くなったが、ベオグラードから南へバスで揺られること6時間強のところにコソヴォ自治州ミトロヴィッツァがある。丘陵地帯を抜け、岩が剥き出しの山岳地帯を過ぎたあたりで、巨大な抜け殻のような、操業を停止した工場が見えてくるとミトロヴィッツァはもう目と鼻の先だ。



ミトロヴィッツァの街に着いた。


なんとなく緊張感漂う文体で書き始め、街に着くまでの緊張感が醸し出ているなあ、と書きながら感じるが、僕がそこで見た街は、意外に'普通'であった。そういう話は聞いていたので想像はしていたが、悪いイメージばかりが先行していた。街には人々が普通に行き交い、店には沢山の品物が並ぶ。あれほど熾烈な諍いがあった場所とは、何も知らずに辿り着いた旅行者には気づかれない程に。


でも、それが'普通'なのだ。どこに行ってもそこで人々が生きている限り、彼らの営みは存在し、それに尾鰭を付けて想像してしまうのは、自分が当事者でないことを端的に表してしまう。悲しみや憎しみを想像するのは簡単かもしれないが、理解することとそれは全く違う。


ミトロヴィッツァの街を散策してみる。


先日の事件もあって、周辺に3つあるどの橋の周辺にも、UNMIKやKFORが駐在していてとても渡れる雰囲気ではなかったので、行動範囲は行程中常に、セルビア側の'北側'であった。ことあるごとに目に映る、'南側'の彼岸の街にはなにがあるのか、どんな人々がいるのか、と何度も考えたが、やはり分からずしまいだった。しかしながら、此岸と彼岸を別け隔つものは、10m強の川に過ぎないのであって、自分はこの土地の場所性というものを強く感じずにはいられなかった。民族というものが、自己の出自を問うものとして、本人の性質に関わり、地理的にも譲れないものも含んでいるのならば、日本人の僕にとってその概念への親水性は薄く、理解するのはとても難しいことだと思うが、この川や、岩が剥き出しになった付近の山々や、遠い青さを帯びた空は、相も変わらずにずっと昔からそこにあるという事実は変わらない。この河が持つ場所性というものは随分と昔からそこにあって、伏流水の様にそこを流れてきた民族の血が、大きな流れとなって噴き出してしまったのが、ここで起こったことなのかもしれないと思った。渡渉点としての緩衝点でもあって衝突点でもあるのがこの場所の特殊性であるとも思う。


北側のミトロヴィッツァは不思議なスカイラインを形成していて、高層の集合住宅の合間を縫うように、低層の、バラックのような小売店やスタンドが軒を連ねて、街のオリエンテーションはなかなか掴みづらい。自分がどこを歩いているのか分からなくなるのだ。それが戦後の雑踏というものなのかもしれないが、今後ジェントリフィケーション(gentrification)が進んで底辺の人々が更なる受難を経験するような予感は、難民キャンプを訪れてみても感じるし、街の機能としても、ぽっかりと欠けてしまったものを感じる。


「昔は河の向こうの、ほら、あそこにある、あの場所によく行ったんだ」
という言葉が示すものがあると思う。


この街の住民にとってのこの都市の機能は、北側だけでなく、南側も含んで完結するものであって、雑踏で目にする若者や年寄りや子供は、欠けてしまったものを探すかのように行き交っているように僕には映った。実際あった姿よりも狭くなってしまった生活の場で生活せざるを得ない人々。


ミトロビッツァの夜。


夜は仮眠を取ってから、街で只1つと言われるクラブに顔を出してみた。単純に若者の顔を見たくなったから。はっきりいうと今後のコソボを担っていくのはこの街に住む若者だと思うし、彼らがどういう表情をしているのか見たかった。Black Ladyという店の名前の意味はわからないが、若者の顔はとても明るくてベオグラードよりも気持ち垢抜けた音楽に体を揺らしていた。平日だというのに店は混雑していて、他に娯楽がないのではという反面もあるが、彼らの明るい表情を見て、僕は『頑張れ』、と心の中でエールを送ったのだった。

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歴史や民族紛争や地政学的なプロットについてあまり触れる気はなかったので、興味がある人は、いろいろ検索して読んでみてください。(下記に僕のパソコンに残っていたサイトのURLをいちおうコピペしておきます。)

http://www.morizumi-pj.com/kosovo/1/kosovo.html
http://tanakanews.com/981027kosovo.htm
http://www.morizumi-pj.com/kosovo/2/kosovo2.html
http://www.morizumi-pj.com/kosovo/3/kosovo3.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/コソボ